妄想コラム
〜現実逃避の日々に一服〜

 

■歴史の証人「アグスのテープ」(2000.12.3)

NHKスペシャル『東チモール「暗黒の9月」の記録〜アグスが遺したビデオテープ〜』

(2000年11月25日21:00〜21:50 NHK総合にて放送)

 久々に、ドキュメンタリーを見て涙を流した。一人のインドネシア青年アグスが、ジャーナリストとして日本の通信社に入り、その最初に選んだ仕事の、まさに仕上げの段階でインドネシア民兵の銃弾に倒れた。アグスはインドネシアからの独立を目指した東チモール住民や武装部隊の中に入り、その視点から取材を続けていた。

 アグスが撮ったもの。1999年9月の住民投票で、独立を願う票が大半を占めたことに東チモールの人々が喜びの涙を流す姿。その直後からインドネシア軍・民兵が暴動を起こし、住民が虐殺されてゆく様子(その情勢悪化のため、国連軍とほとんどのジャーナリストは東チモールを出た)。「暴動は東チモールの武装集団の仕業」などとインドネシア政府が世界に嘘を公表し続けているさなか、インドネシア軍が行った国連の事務所の略奪、インドネシア民兵が行った手榴弾による民家の焼き討ち、銃や刃物、素手による暴力。東チモール武装集団が、逃げてきた住民をかくまい、食料や寝床を提供している様子。、焼き討ちにあった村の壁に書かれた、「血はいつまでも流れ続ける。インドネシア軍はいつでも東チモール武装集団の挑戦を待つ」という文字。

 アグスは国連はおろかほとんどのジャーナリストが東チモールから脱出したのに、取材を続ける中で見て、聞いた、インドネシア軍の暴行を許すことができず、いちジャーナリストとして現場に残り取材を続けることを決意した。小さなDVテープと日記に記録された数々の事実は、そのアグス自身の憤りを今まさに代弁している。

 アグスは最後の取材として、多国籍軍が東チモールに戻り、安全が確保されたと思われた村に、教会のシスターが食料を届ける車に同行。その頃インドネシア軍は、民兵に「教会関係者も思想的に住民を扇動している」として殺害の指令を出していた。その9月25日、教会の車が向かっていると連絡を受けた民兵グループが、道路の途中で待ち伏せ、緩やかなカーブで車に一斉射撃。その後は一人ひとりに刃物でとどめを刺していった。死体は車ごと、道路沿いの川へ落とされた。

 僕が何に涙したかというと、ジャーナリストの命は失われても、彼が遺したテープなどの素材、日記などの記録は残り続けるということ。彼がとらえた事実が編集され放送されることで、人々の心に深い印象を与えうるし、時代をうつした記録としての観点から見れば、人々の記憶から東チモールの独立が消え去っても、それを現場で捉えたテープとして永遠に歴史の証人で在り続けるということだ。

 癒えぬ悲しみや憎しみは、忘れることで、緩やかに緩やかに消え去ってゆく。東チモールの独立紛争も、歴史には残っても、その時その場所で人々がどのように生きたのか、何を感じて生きたのか、そして死んでいったのかというようなことは、忘れ去られてしまう。アグスのようなすばらしいジャーナリストの存在も、いつしか忘れられる。しかし、アグスが遺したテープは、当時の様子を刻銘に記録しており、後世の人に、そこで何が起こったのかを映像と音声をもって伝えてくれる。アグスの妻はアグスの死後、身篭もっていたアグスの子どもを流産した。アグスのDNAはこの世から消え去ったけれど、アグスは生きた証を小さなDVテープとして遺し、今僕の目に涙を浮かばせている。

 アグスが遺した十数本のDVテープ。アグスの辿った道をNHKの取材班が追い、アグスと話をした人々のインタビューを撮影したテープ。これらが編集され、仕上げられた50分のドキュメント。アグスが撮った映像は、画質的にも映像的にも、決して綺麗なものではない。保存状態が悪かったのか、時にはDV特有の画面の乱れである細かなブロックさえ現れる(デジタル方式で撮影されたテープを早送りしたときに出る、アレ)。しかし、東チモールの人々の癒えぬ悲しみを現場で捉えているテープはこれだけだ。どんなに荒い画像でも、どんなにうまくないカメラの振りでも、それらをとらえているというだけで、数知れない人々に、影響を与えうる。

 僕はアグスの存在にものすごく感謝している。同時にその不在に憤りを感じている。彼のような勇敢なジャーナリストがその勇敢さ故に命を落としてしまう事実。国と国、民族と民族、宗教と宗教の間に存在する憎しみ。アグスなら、東チモール以外の場所でも、すばらしい取材ができ、より多くの人々に印象的な映像と音声で事実をつきつけることができただろう。

■チューリップ畑の青春(2000.1.19)

 小学校4年か5年の頃。引っ越してきたばかりの近所を自転車でぶらぶらしていたら、突然目の前にチューリップ畑が広がった。黄色やオレンジ、赤のチューリップが所狭しと咲き乱れている。しかしそのチューリップ畑は、そのとき一度見ただけで、その後はどうしても探し出すことができなかった。畑の情景は、あれから十年以上過ぎた今でも、目に焼き付いているのに・・・。

 ここ最近の、実家で暮らす日々は、時間がありあまっているので、散歩などをして過ごすことも多い。これは実家に帰り、突然栄養状態が良くなった僕の体の、適度なカロリー消費にもなる。散歩をしていて思うのは、あらためて周囲が変わってしまったということ。僕らがミニ四駆を走らせ、ローラースケートに興じ、大好きな女の子たちと走り回った道路は広がり、交通量もかなり増えた。晩秋からから初夏にかけてはまさしく運動場だった田圃には、マンションが建ち、駐車場スペースを広くとった郊外大型店舗が建ち並んでいる。

 ただ、変わらないものももちろんあり、遠くに見える小学校の裏山なんかは、宅地開発も行われておらず、年に2回の登山をした道が木々の間にちらっと見える。幹線道路をちょっと入れば、学校帰りにアイスの棒や木の枝などで競争をした小さなどぶが、車一台通るのがやっとであるアスファルトと平行している。

 昔を思い出すときには、そのころ一緒に遊んだ仲間たちや、僕をかわいがってくれた先生方が目に浮かぶ。会いたい、話をしたいという衝動はあるけれど、不安な面もある。

 当時の環境は、仲間を選びにくい環境にあった。同じクラスにいるものや近所に住むものが、仲の良い友達であり、日が暮れるまで遊んだ仲間だからだ。「こいつの考え方が気にくわない」「ああいう態度をとるやつは嫌いだ」「こんなものの感じ方ができるあの人が好き」「この人は尊敬できる」といった感情から仲間を選ぶのは、もうちょっと成長してからだったと思う。ちょっと気の合うやつが親友だし、一緒にいる(遊ぶ)時間の長いやつとよく話をしたし、同じクラスの、しかも家が近い、面倒見の良いかわいい女の子を好きになった。極端にいえばそこにいることが仲間の条件だった。それ以外には、なかなか選びようがなかった。

 昔、特に小学生の頃の仲間に会うことの不安とは、ただ一緒にいることだけで「仲間」と思っていた頃とはお互いに違うし、それぞれにすてきな出会いをしていて、はたして今現在の自分が相手にとって、また今現在の相手が自分にとって「つまらない」相手だったらどうしよう、ということだ。いい思い出の中にいるあの人が色褪せるのは、つらい。あの人の中の自分が色褪せるのが悲しい。中学からみんなと違う私立に通った僕だから、その思いはなおさらだ。そう思うと、年賀状なんかで「実家に帰ってきているので、今度ぜひ会いましょう」なんて書かなきゃよかった、なんて考えてしまう。

 ただ、あの頃の仲間が今何をしているのかはすごく気になるし、何を目指して(もしくはすでにその目指したものを獲得して、あるいはそこにとどまることを決意して)、何を考えて生きているのか、知りたいし、もちろん思い出話にも花を咲かせたい。同じ場所で同じ時間を過ごした仲間だからこそ、分かり合えるものがある。あの頃の未来に僕らが立っていなかったとしても、それぞれのいくつもの分岐点で、誇りを持って自分の選択をしてきた仲間をたたえることができるだろう。そう考えると、なんだか無性に会いたくなってきた。

 僕の目の前に一度しか現れなかったチューリップ畑は、枯れ果てた姿や、畑が他の何かに変わって行く姿を僕に見せなかったからこそ、いつまでも僕の心にあざやかに残っている。しかし、同じ土の上で、同じ栄養分を吸収して花を咲かせたチューリップたちは、きっとどこかで誇らしく、色とりどりの新しい花を咲かせているだろう。誰かに持って行かれたり、枯れてしまったり、別々になったりしても、そこで育ったことは細胞の核に刻み込まれているし、今咲いているその個性的な色を構成する成分の何パーセントかは、あの頃の栄養を元にしてつくられたのである。

■ドキュメンタリー・レビュー(1999.10.19)

「ETV特集 シリーズ ビデオジャーナリストは見た ウガンダ内戦の悲劇」

(1999年10月19日22:00〜22:45 NHK教育にて放送)

 ウガンダには、1998年の夏に行って来た。スタディツアーの中で記録係だった僕は、本隊とは離れ、往復13時間かけて、ルクンギリという、ウガンダの西のはずれでザイールとの国境まであと少し、内戦のほとぼりも冷めぬルワンダにも近い村にまで行って来た。

 一方、首都カンパラから北に同じくらい行ったところでは、は反政府ゲリラ・LRAが自軍の兵士補充のために子供たちを誘拐し、兵士として訓練し、戦闘にかりだしていた。その数毎年3000人。そのうち3割は女の子だという。

 ナイティは、そのとき17か、18歳。11の時にLRAに誘拐され、一度逃げ出したものの、また捕まり、この1998年の秋、何とか脱出した。女の子は、兵士として銃を持って戦うだけでなく、ゲリラの部隊長の身の回りの世話、性の世話まで強要される。ナイティも、そんな女の子のひとりだった。ナイティたちのように、LRAから何とか脱出できた子どもたちは、体の傷だけでなく心に深い傷を負っているので、すぐに元の生活に戻ることは難しい。そこで、カウンセリングをしたり職業訓練をしたりで、集団生活をしながら徐々に本来の自分を取り戻していくことを支援する施設が5年前にできた。欧州のNGOの支援でできたその施設、「グスコ」で働く少年少女との8ヶ月に及ぶ交流を描いたのが、今回のドキュメンタリーだ。

 内戦や紛争、戦争で、結局一番傷つくのは、子どもたちや女性といった弱い立場にある人々だ。世界中の紛争地で起こっている、ひとりひとりの悲劇のひとつひとつは、政治的な背景や、めまぐるしく動く状況・戦況に隠され、なかなか表に現れない。何人が死亡した、誰が政権をつかんだ、国際社会の対応は‥‥、日本の立場‥‥。ひとりの人生がどのように乱され、家族の絆を引きちぎり、夢を壊し、その名のごとく土に還っていったかなんて、幾千もの悲劇の中で誰が気にとめようか。

 ナイティの悲劇は、まさにその幾千もの悲劇の中のたったひとつでしかない。ナイティは「グスコ」で親友をつくり、手に職をつけ、心の深い傷も癒し、「グスコ」を出ていくことになった。親戚が難民キャンプに引き取ってくれるという。LRAによって狂わされた人生をと取り返し、自分の力で輝こうとするナイティのまなざしは、圧倒されるほど希望に満ちていた。

 しかし、グスコを出てわかったことだが、ナイティはエイズにおかされていた。20人以上もの女の子に性の世話をさせていたゲリラの部隊長からうつされたとしか、考えられない。彼女の親戚家族は、生きる勇気と希望をようやく見つけたナイティにそれを告げることができなかった。日に日にやせ衰えてゆくナイティ。取材したジャーナリストが1999年6月に再びウガンダ北部の村を訪れたとき、ナイティは人の肩を借りてでさえ病院に行くこともできず、寝たきりになっていた。頬がこけ、肩胛骨が浮き出ている姿は、見ていられなかった。そしてこの夏、ナイティは土に還っていった。彼女が埋められたその土に、彼女がいつもつけていた石をつないだ腕輪がそっと置いてあった。グスコでできた彼女の親友、彼女の親戚たちが、大声で泣いていた。泣くというよりも、叫んでいた。戦争・人々が憎しみ合うこと、それらの一番の被害者は彼女たちであり、ナイティのような人たちだ。僕たちがどれだけ大声で戦争反対、子どもの兵士反対を叫んでも、彼女たちの悲痛の涙にはかなわない。

 僕がウガンダに滞在していた頃、ナイティは同じウガンダの北部で、生きる希望を失わず、脱出の機会をうかがっていた。脱出して8ヶ月後、彼女の短い人生は幕を閉じた。彼女が彼女らしく生きた期間は、あまりにも短かった。生まれくる状況を選択できるものなら、誰だってこんな人生は選ばないだろう。人生が選択できないものであるからこそ、ナイティの悲劇は僕たちには遠すぎるし、想像できない。悲劇を悲劇として、きちんとその悲しみや嘆きを怒りに、怒りを行動に変えることのできる人たちこそ、悲劇を地球からなくすことができるだろう。ナイティはそれを僕に静かに語ってくれた。

■文章を書く行為について(1999.10.12)

 文章を書かない日々が続いている。もう3年。そりゃ筆も鈍る。ずっと書き続けていた日記だって、ここ2年書いていない。文章で何かを表現する事に限界を感じたのはいつ頃だったのだろうか、今はそれさえも思い出せない。断筆宣言‥‥という宣言もしないままに、放り投げた夢たち。

 物書きになりたかった。唄うたいになりたかった。自分の表現力がどこまで通用するのか、世の中にどのようなインパクトを与えうることができるのか、試したかった。

 表現力は、人が生きていくうえで最も重要な要素のひとつだろう。表現し続ける人は魅力的だ。こんな僕が何の因果か、映像と音声で表現する世界に飛び込むことになる。ドキュメンタリーを制作するということは、この世界のどこかにある事実を切り取り、構成し、映像と音声でメッセージを伝えるということ。いやがおうにも表現力を求められる現場だ。伝えたい。自分しかできない手法で、多くの人に、あるいは特定のターゲットに、自分なりのメッセージを。

 僕より1年早く、取材力と文章力で飯を食う世界に足を踏み入れた女性たちがいる。プロとして新聞記者として生きていく道を選んだ彼女たちには大きな敬意を抱いている。彼女たちに僕のウェブサイトでの連載を依頼したのは、物書きの卵がプロになってゆく過程を見ていきたいし、それに刺激されて自分もいち表現者の卵として、表現するという本能を目覚めさせたかったからだ。

 いつの間にか眠ってしまった僕の表現力。今もこの文章を書いていて、語彙力のなさやイマジネーションの乏しさにうんざりしている。こんな文章、書かなきゃよかった。こういう気分を僕は「もくもく」すると表現している。妄想だけがふくらみ、それを自分の外にアウトプットできない状態。それでも僕は書く。マスターベーションに近い行為だ。ある意味文章を書くという行為は、それを誰かに読まれるという前提のもとではマスターベーションであると思うのだが。

 文章を書くことを習慣づける(どうしても書かなきゃいけないように自分を追い込む)という建前のもと、僕はコラムを書くことにした。読む価値はないかも知れない。妄想の中に自己完結していた僕の表現力が、もくもくと花開くことを願う。(ここからさらに現実逃避にならないことを強く望む)

 

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